お産について


『伊平さんの女房』第十六話で書いたように、江戸時代のお産は座産でした。
そして妊婦は子供を産んだ後、お七夜まで横になることも許されず、座ったままの姿勢ですごしました。この不自然な姿勢を続けさせることは、意味もなく妊婦を苦しめていたのではなく、ちゃんとした理由があります。

昔の人々はお産に対し「新しい命を生み出す尊いもの」と考えると同時に、お産が出血を伴うことから「穢れた不浄なもの」という相反する考えを持っていました。
死の穢れを意味する黒不浄に対し、お産の穢れは赤不浄といい、妊娠中は神社仏閣などの神聖な場所への立ち入りを禁じられました。体内に血の穢れを持った妊婦は、八百万の神々から忌避される存在だったのです。
また、新しい命を生み出すということは、あの世からこの世へ霊魂が移動することで、その際妊婦の魂も不安定な状態になると考えていました。
そのためお産は身体的な処置だけでなく、霊魂に関しても適切な処置を施さなければなりませんでした。
合理的な現代人には首を傾げるような儀礼の数々も、その一つ一つが先祖達にとっては妊婦と赤ん坊の無事を願う大切な儀式だったのです。



岩田帯
妊娠五カ月目の戌の日に帯祝いをします。産婆を家に呼び、妊婦は岩田帯を締めてもらいます。
戌の日に行うのは、犬がお産が軽いためそれにあやかった風習で、この日から妊婦は産の忌みに入ります。
産婆という呼び方は江戸中期以降に定着したものですが、それ以前は取り上げ婆といいました。
「取り上げる」とは「あの世からこの世に取り上げる」という意味で、産婆は単に分娩介助をするだけでなく、生まれたばかりの不安定な霊魂を赤ん坊の身に安定させる巫女としての役割を持っていました。
帯が終わると産婆を主賓に仲人や近親者が集まり祝いの席となります。近隣の家々には赤飯や祝いの品を届け、地域の人々に妊娠を知らせます。
帯祝いをした子は必ず産み育てなければならず、間引きが普通に行われていた時代、帯祝いは胎児の存在を認め、産む選択をしたことを示す儀式でした。




厠掃除
妊婦にとって厠掃除は大切な仕事です。厠をきれいに掃除していると、美しい子が生まれると言われています。
厠に宿る厠神は、箒神や山の神とともに出産を司る産神(うぶがみ)で、血の穢れを厭わずお産に立ち会い、産婦と赤ん坊を守ってくれる神様です。
厠の穴はあの世につながっており、霊魂がこちらへ来る時の通路と考えられていました。そのため臨月に厠へお参りし、お産が軽く済むよう祈願しました。これは排便の様子がお産に似ていることによる類感呪術(類似したもの同士は互いに影響し、類似した結果がもたらされる。という考えから行われる呪術。)といわれています。

箒神は箒がゴミを外に掃き出すように、悪霊を祓い場を清め、胎児を外に出す力を持った神様で、箒でお腹をなでるとお産が軽くなると言われています。

山を司り山の幸を授けてくれる山の神は、春には里に下りて田の神となります。山の神は十二様とも呼ばれ、一年に十二人の子を産みます。このことから山の神は作物の豊穣や富をもたらす生産の神とされています。
また、山は死者の霊の休まるところであるため、山の神は子孫を守護する祖霊でもあります。




座産
産の穢れを日常生活の中に持ち込ませないよう、出産場所として産小屋を建てる地域もありましたが、自宅の一室が使われる場合も穢れを拡散させないように出入りする人を制限しました。
また、「夫がそばにいると産が重い。」「男が一度立ち会うと、その後は男がいないと出産しない。」といい、産気づくと男は早々に家の外に出るところが多かったようです。
産婦は天井から吊るした力綱を握り、しゃがんだ姿勢で力みます。このとき、産婆以外に腰抱きという介助者が産婦の後ろから腰を抱き、出産の手伝いをしました。
出産中の産婦の魂は非常に不安定で、いつ肉体から離れてもおかしくないと考えられていました。難産で気絶すると、夫は屋根に上り大声で妻の名前を呼び、魂を呼び戻しました。
赤ん坊が生まれると、産婆は竹刀(たけがたな)という竹を削ってナイフのようにした物を使って臍の緒を切りました。昔は「切る」といわず「継ぐ」といいました。これは「切る」という言葉が親子の縁切りを連想させたからです。




産湯
昔の人々は生まれたばかりの赤ん坊を、まだ人になっていない霊魂を宿した肉の塊。と考えていました。酷いと思われるかもしれませんが、それだけ出産時の死亡率が高かったのです。赤ん坊の魂をこの世に留め、人にするためには、あの世から身に付けてきた物を捨てなければなりません。産湯で穢れを洗い身を清め、産毛を剃り、吉日を選び胞衣(えな)を埋めました。
江戸時代に描かれた産湯の絵はどれも、産婆がうつ伏せにした赤ん坊を足にのせて体を洗っています。これは臍の緒を濡らさないようにするためと、背中に五臓の神が乗っていると信じられていたからです。
五臓とは肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓のことで、それぞれに神様が存在してると考えられていました。この神様を大切にすると健康が保たれますが、粗末にすると神様がその人の体を去り死に至ります。
なので産婆は、赤ん坊の体から五臓の神が去っていかないよう、目を離さず見張る必要がありました。
産湯が終わると赤ん坊は襤褸や前掛けなどでくるまれました。人かどうか定かでないものに、袖のついた着物を着せてはいけなかったのです。それに生まれる前に産着を縫うとその子は死ぬ。とか、不幸になる。と言われていたのでこの時点で産着は用意されていませんでした。また、古布に包むのは、悪霊の目を欺き、生まれたばかりの魂を守るためでもありました。
誕生から三日目は、三つ目というお祝いです。ここで初めて赤ん坊は人と認められ袖のついた産着を着せてもらいました。この産着には悪霊から身を守る「背守り」という御守りが付けられていました。




産椅
出産を終えた産婦は産椅(さんい)という椅子に移されお七夜までの七日間を座ったままの姿勢ですごしました。これは血のぼせ(産褥期に起こる頭痛、のぼせ、めまいなどの症状)を防ぐために行われていたことですが、逆に体調をそこなう女性も多くいました。
江戸時代中期の産科医、賀川玄悦(1700〜1777)は産椅の害を説き、やめるよう力説をしましたが、この風習は西洋産科が日本に普及するまで続きました。
健康をそこなっても産婦が座り続けたのは、これが出産を通じ不安定になった魂を体に定着させるための処置だったからです。
産育儀礼と葬送儀礼の類似は多くの研究者に指摘されています。産湯と湯灌(ゆかん)。産毛剃りと剃髪。産着と死装束。産飯と枕飯。お七夜と初七日。あの世とこの世で方向は違いますが、どちらも共に霊魂の移行期です。そして座り続ける産婦は、座棺に納められた死者と対になっています。七日目に死者の魂は三途の川を渡り、産婦の魂は不安定な状態を脱し、体に定着。床上げとなります。
お七夜の日には、親族が集まりお祝いをします。赤ん坊の名前もこのとき付けられました。
名付けがすむと、出産からずっと母子を見守っていた産神様がお帰りになります。


生まれてから約一カ月後にお宮参りに行きます。氏神様に子供の誕生を報告し、加護を求めます。こうして赤ん坊は氏子となり、これから先の人生を氏神様に見守ってもらいます。
しかし赤ん坊の体と魂の結びつきはまだまだ弱く、ふとしたはずみであの世へ帰っていきます。そのためお宮参りの後も、五十日(いか)、百日(ももか)、食い初め、初誕生、七五三と子供の成長ごとに儀礼は続きます。「七歳までは神のうち」と言われた時代、儀礼を通し子供の体と魂を強く結び付け、無事な成長を願いました。





━ 参考文献 ━

『お産の歴史  杉立儀一 集英社新書
『現代「女の一生」人生儀礼から読み解く』 関沢まゆみ  NHKブックス
『霊魂の民俗学』  宮田登 日本エディタースクール出版部
『浮世絵に見る江戸っ子の一生』  監修 佐藤要人 編者 藤原千恵子  ふくろうの本
『母と子でみる祖父の時代の子育て』  須藤功 草の根出版会
『女の目で見る民俗学』  中村ひろ子・倉石あつ子・浅野久枝・蓼沼康子・古家晴美・宮田登  高文研


           

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